宗教ではないが体系をかえることはできる

2016.3.8 (火)

誰も変化など望んではいない

思考回路に限らず体系が劇的にかわることがあるのげど、あんまり臨まれていないような気がしております。体系が変化して生活それ自体が変化してしまった悪例としてはオーム真理教があると思うんですが、家族が修行の中で焼却されたりするのが彼等にとって幸福だったのかどうかは別としても殺人に対して良心の呵責がなくなってしまうというのはひどいものだとは思います。しかし体系がかわることにたいしてはそういう意味もあってかどうかわからないけど世間ではあまり望まれていないし期待もされていないような気がしているのです。二律背反的な要素がふんだんにあるので危険であるということなんでしょうか。
体系の変化といえば、コペルニクスとアイン・シュタインがわかりやすいです。コペルニクス的回転という比喩があるぐらいガラッと事物の認識が変化することがあります。地球が宇宙空間に浮いていて太陽の周りをまわっているなんていうのは荒唐無稽だということは、あながち我々の常識からいっても理解できる範疇でありむしろ太陽の周りをまわっている方がキチガイじみている。同様にしてニュートン力学が非常にわかりやすく我々の直感に馴染みがあるという時代に(エーテルなんてなかったわけで。。)e=mc^2はこれもまた驚愕に値する概念でした。(当時は概念でしたが、現在は日々刻々と実証証明されている。)質量=エネルギーであり変換が可能であるということ。従来の時間は定数で距離と速さが変化するという物理公式を速さ(高速)が定数であり、距離と時間が伸び縮みすること。これはもう革命以外の何もでもなかったわけですが、今や常識となっています。
歴史的にはそういった変化がありました。これが個人の人生の中にないとも限らない。劇的に変化しこれまでの思考回路、行動様式、想像力が一挙に体系を変え劇的に変化する人もいるかと思います。が、コペルニクスがキリスト教社会にとって目の上のたんこぶだったようにけっして望まれているわけではなったわけでして、いち個人の体系がいい意味にしろ悪い意味にしろ変化することは日常社会では全く望まれてない、そう思うわけです。
ドグラ・マグラ(夢野久作/著)の正木教授がちんどん屋になって啓蒙するシーンがあるのですが、ああいったことでもしなければ中々理解はされない。結局小説というフィクションではあるけれど、その中身を最後まで理解する人はいないということになっているのです。

何のための変化か

ブッダはお金持ちの御曹司でしたが修行にでかけます。わざわざイバラの道を歩むわけです。これはいったいどうしたことかという感触ですがブッダにとってはそれが彼の中で切望した内容であったからでしょう。しかし彼もまた修行の中で様々な苦難の道を歩んでゆきます。
では何のために我々は体系の変化を望むのか。私なりにこたえを求められたら、

  • これから生まれてくる子供のため(次世代のため)
  • 幸福になるため、健康になるため

の2点に絞られるかと思います。それ以外に理由はない。それ以外に理由はあるんでしょうか。

変化の感覚