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無題

2016.3.23 (水)

いつも思うのは自分が知らない世界に対して判断を下すのは本当に格好悪いことだなと。自分の知らない世界については常に畏怖の念とその道の人間に教えて貰うのが人間の原理に近いものじゃないかと思ってて、もし仮に自分の知らない世界に思いを馳せ自分の想像力を最大限に駆使してある世界観を表現できたとしたらそれは前者に翻ることなくこれまた違った観念世界、つまり「芸術」だと私は思っています。芸術はそういう意味では荒唐無稽な代物ではなく、常に我々の知り得ない世界観に対しての挑戦であり先駆者であるのだけど、これまで先人によって作られた既存の世界観や経験、秩序や作法といったものはそれなりに理由があり新参者が高らかに笑えないようなものであると世間はあまり教えようとしない。
私が特に嫌いな人間は小さな世界の立派な人間である。彼等は基本的に小さな世界の立派な人間であるので理不尽な経験が少ないか皆無に等しいのである。批判もなければ挑戦もない。判断は常に自分のみで完結し、それでも尚小さな世界では彼等の特殊な技能に対してのニーズがある。小さな世界の立派な人は、常にそれ以外の世界を敵視し、それ以外の世界観に適応できない。彼等には完結したドラマがありその枠を出ない。私はそういう人々を時々論破して苛めたくなる時があるが、いつもながらとても嫌な気分になる。
しかし何故彼等は自分の想像力の及ばない範囲に勝手な想像を施して「それらは間違っている」と断言できるのだろうか。
古武術とかいう勝手な言葉で有名になってしまった甲野善紀さんがいる。彼は取材を拒まない上に自分の言葉で真摯に応える。彼は武術を愛してやまないが古来武術を1つの組織として興してきた人々には彼を批判する者が多い。結果からすると「いんちき」であると。だがしかし彼は我々が知り得ない(あるいは、どんな武術を鍛錬してきた人々でも想像するに及ばない)次元に対してある意味で芸術的で圧倒的な想像力と、またそれに加えて非常に実践的な技術をひとつひとつ紐解いてきた人間である。巨大な武術教室などを組織する集団の陰口は時折聞こえるが数は多くとも声は大きくない。そのような姑息な人間達の小言が私を非常に嫌な気分にさせる。
かつて石油燃料は石炭に比べて採掘コストが高いこと、燃焼が不安定であること、窒素化合物などの副次的な有害物質が多いことなどを理由に取るに足らない燃料だったことは今現在の人間は誰も知らない。当時の人々にとって石油は想像力の及ぶ範囲ではなかったためだ。
事実に対して判断をするのは仕方がない、それは人間の生きる戦略そのものだからだ。想像が表現された時点でとるに足らない貧困な想像力だと批判するのもよいだろう。しかし自分が知り得ない領域に対して妄想的な世界観をいだき、その妄想から導き出された判断が嘲笑や軽蔑といった類のものであった時、それはいったいこの世界にとって何という「モノ」なのだろうか?それは何のために存在し誰のために存在し何を生むのか?それはただ単に自身のくだらない妄想とナルシズムを擁護するための道具に等しいのでないかと。もしそうだとしたら、そうした人間には殆ど創造力という未知の可能性は残されていないのではないか。
だが、しかし、そういった姑息な人間達こそが「自分は創造者である」と内心自負していることこそが私が最も気持ちの悪いとするところである。